-KONTON- Randomizer|category:report|諏訪大社|
諏訪大社は全国に勧請され分社が1万を超える、日本を代表する神社の一つである。国内にある神社の中で最も古いと言われる。また、古来の土着信仰を色濃く残しており、日本古代の信仰形態を探るための良い資料として考古学者や民族学者の興味を強くひいている。
上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮の4社からなる。上社は、祭神を建御名方神(たけみなかたのかみ)とし下社は、祭神を建御名方神の妻神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)としている。また、上下社ともに本殿がなくそれぞれ守屋山と御射山を神体としている。また習合時代は上社のご神体としてお鉄塔と呼ばれる仏塔が祀られた。また、下社では宝納堂が聖地とされた。
諏訪大社成立の由来については諸説あるが、ここでは「古事記」と「甲賀三郎譚」由縁のものを紹介する。どちらも外来のものが如何にして諏訪に入ったのかを示している。
諏訪大社の由来としては一番良く知られたものである。これは古事記内の出雲神話に依る。
―昔、日本は葦原の中つ国と呼ばれ、国王は大国主命であった。高天ヶ原の天照大神は葦原の中つ国を手に入れるため、径津主命・武甕槌命を派遣し、大国主命に国譲りを迫った。大国主命の息子である建御名方命がこれに対抗した。武甕槌命と力勝負を行ったが負けて、科野の国に逃げ込むことになった。天竜川で洩矢の神と対陣し、交渉の結果力比べをすることになった。この力比べで建御名方命が勝利し、以来諏訪の地で国作りを行ったといわれる。
中世に語り継がれた諏訪大社の由来。諏訪大明神が竜蛇神とされる理由のひとつ。
―甲賀三郎は大和の国主となり春日姫と結婚した。三郎が兄たちと伊吹山で狩りをしている時、春日姫がさらわれた。全国を探し求め信州蓼科岳の人穴のなかで春日姫を発見。救い出したが、春日姫に恋する兄によって三郎は穴から出られなくなる。三郎は穴の中を進み、維縵国に至り国王の娘と結婚する。13年間暮らすが春日姫恋しさから再び地底探索開始。国王は鹿の肝で作った餅を与え、道中の難所の克服法を教えた。千日かけ三郎は信州浅間岳に到着。しかし自身の体が蛇になっていた事に気づく。老僧の言うとおり、池の水を飲み、呪文を唱えると元に戻った。兵主神に導かれ、三笠山で春日姫と再会。平城国で神道の法を授かり、帰国。三郎は諏訪大明神として上社に、春日姫は下社に出現した。
上社、下社ともに大祝と神長官、禰宜大夫、権祝、擬祝、副祝の五官が重要な任に当たった。上社の大祝は神氏、下社の大祝は金刺氏がつとめた。ただし下社については、上社勢総領頼満の下社攻撃によって金刺家滅亡したため、資料が残っておらず不明な点が多い。上社の大祝は現人神として信仰の対象とされた。一方、下社の大祝は人としての度合が強く、神官の最上位という立場であった。上社の大祝は8歳の時に即位する。この際、神長官守矢氏によって御左口神(ミシャグジ)降ろしが行われる。大祝である神氏は建御名方神を祖とする外来のものであると言われる。また、神長官守矢氏は諏訪の土着信仰の対象となった洩矢神を祖とし、その神を崇めた先住民とされる。また御左口神は諏訪の原始宗教の対象であった。よって、新しい神であり外来の祀られる側が先住民である祀る側の代表に古い神を憑けてもらうという関係になっており、非常に面白い構図であると言える。
諏訪大明神(建御名方神)は様々な神として祀られてきた。
「袋草子」にもその存在が示される通り、風祝という存在があった。これは大祝が風祝の性格を持っていたと言われる。持統天皇の五年に天候回復の奉幣を受けたことや薙鎌が風を静めるという信仰があったことからも諏訪大明神が風の神とされていたことが窺い知れる。なお、薙鎌は下社秋宮の宝物殿に展示がある。
甲賀三郎譚にその起源が見られる。また、元寇の際、諏訪大明神が竜蛇となり加勢したと言われる。
人皇十五代神功皇后元年の朝鮮半島の攻略の際に出現。また、坂上田村丸の安倍高丸追討の際にも手を貸す。異国のものや天皇に刃向うものと戦う戦の神とされた。
信濃の国では狩猟が盛んであった。また山岳信仰との関係から狩猟はとても重要なものと見做されていた。よって諏訪大明神は狩猟を好むとされた。
その他にも、農耕の神、漁業の神とも見做されており、これは下社関係の神事から窺い知れる。
諏訪信仰が起こる前から、諏訪地方には原住民達の原始信仰があった。そのひとつが山岳信仰であり、古来より守屋山はモリヤサマとして信仰の対象となっていた。また御左口神信仰も盛んであったとみられる。その他にも、巨木や石といったものも信仰の対象としていたようである。
明治維新において神仏分離、廃仏毀釈がなされ神宮寺などもすべて取り壊されてしまった。しかし、それ以前の長い期間は神仏習合が行われていたはずである。「叡山大師伝」には諏訪明神が法華経を上野国千部法華院に助送したという記載があるし、「諏訪大明神画詞」には「慈覚大師伝」をふまえたものとして円仁が3年かかって写した法華経を諏訪明神が守ってくれたと記してある。このように諏訪大社と法華経の関係性は割と早い時期から見られ、初期の神仏習合の様子が鑑みることができる。しかし、神宮寺がいつ建てられたかは廃仏毀釈の際の取り壊しの為不明。神宮寺建立は他の神社に比べ遅く、平安時代までは神宮寺は建立されてなかったのではないかとも言われる。上社の本地仏は普賢菩薩、下社の本地仏は千手観音とされている。この制定については、中台八葉院による見立てという意見もある。諏訪湖を大日如来としたときに、上社が普賢、下社が観音の位置となるらしい。
上社の大祝は現人神として神性を保持。下社の大祝は人としての度合が強く、神官の最上位という立場。上社は男神、下社は女神。上社は夫、下社は妻。上社は狩猟的、下社は農耕的祭事が多い。というように上社と下社には対照性、相補性が見られる。
上社、下社共通は御神渡、筒粥、御作田。
七を神聖な数とする仏教的な影響が見て取れるという考えもある。また御柱も七年ごと取り換えることからも七を強く意識していることは確実だと思われる。
上下社合わせると年間200近い神事が行われる。以下に主要なものについて記す。
上社本宮を流れる御手洗川の堅氷を割って蛙2匹を捕まえ、神前で柳の小弓、篠竹の矢で射抜き、矢串に射したまま、生贄として捧げる。竜蛇神の諏訪大明神への生贄とも言われる。
鹿の頭75個を神前に供える。4ツ足を食べることのなかった時代にも御頭祭では鹿を食べていた。その許可証として鹿食免が売り出されていた。
筒粥殿内において、粥が作られる。粥と小豆の分量において吉凶が占われる。この結果によって農耕計画が立てられた。
御霊代を秋宮から春宮、春宮から秋宮に遷座する神事。
上社、下社それぞれで行われる。御射山において、狩、相撲、騎射などが行われていた。現在は2歳児の健康祈願祭。
諏訪大社最大の祭り。寅と申の年に行なわれる。また、日本三大奇祭のひとつ。各神社の4方にある御柱の建て替えが行われる。切り取った樅の大木を山から下ろす山出しと、町を曳航する里曳きが特に有名。次回は2010年開催。
「戦国時代の諏訪信仰―失われた感性・習俗―」笹本正治 新典社新書
「神々の里―古代諏訪物語―」今井野菊 国書刊行会
「諏訪大社」三輪磐根 学生社
「御柱祭と諏訪大社」上田正昭、大林太良、五米重、宮坂光昭、宮坂宥勝 筑摩書房
「竜神信仰―諏訪神のルーツをさぐる」大庭祐輔 論創社
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